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2003年11月30日更新

マスターズトーク

-アカデミーAHCI(独立時計師協会)とは…-

Antoine-Preziuso.jpgBernhard-Lederer.jpgFrank-Jutzi.jpgSvend-Andersen.jpgThomas-Baumgartner.jpgVianney-Halter.jpgVincent-Calabrese.jpg


スイスには大ブランドには属さず、自らの作品をコツコツと作り上げるだけで無く、大手メーカーからの依頼で新機構の開発や、スペシャルピースの製作を行う独立時計師と呼ばれる存在があります。
そういった方々は【独立時計師協会】に籍を置き、通称アカデミーと呼ばれる【アカデミー・オロロジュリー・デ・クリエーターズ・インディペンデンツ】は特別なモデルの時計を製作する時計師達で、現在AHCIのメンバーは26人(出身国10カ国)を数えています。
大手ブランドの裏には彼等のような時計制作者であるスペシャリスト集団が無くてはならない存在なのです。

 
Svend-Andersen.jpgANDERSEN_SERIE_s.jpg¥1,680,000 Ref.GPSA1110★スヴェン・アンデルセンSVE_AND.jpgスヴェン・アンデルセン
デンマークで生まれ、デンマーク時計製作学校で4年間の製作課程を終えコペンハーゲン王立技術研究所のメンバーとして1963年にスイスに移る。
その後1969年にジュネーブで開催される時計宝飾展への出展作品《Bottle Clocks》によりパテック・フィリップより注目を受ける。
この業績が認められパテック・フィリップの複雑時計工房において時計製作の名匠マックス・バーニ-《Max Berney》のもとで重要なポストを受け、製作に携わる。
後に自身の工房を1979年に発足させ、アンティーク懐中時計ムーブメントの為のケースを創作したりパテック・フィリップより依頼のアンティークウォッチの修復や、大手ブランドより依頼のムーブメントの開発などを行った。
またこの時期彼は数年間フランク・ミュラ-の教育にも携わりながら、大手ブランドよりユニークピース・ウォッチの製作依頼を受注するようになる。

後に自らの作品にも用いるようになり、その中には《communication World〔1989年〕》、《Christophorus Columbus〔1992年〕》、《Perpetual2000〔1993年〕》、《Mundus及びHebraika〔1994年〕》《Perpetual Secular Calender及びGrande Jour et Nuit〔1996年〕》などの作品がある。
さらに触覚時計やエロティックオートマタ時計などの製作でも知られているアカデミー発足第一人者であり発起人の一人でもある。
¥1,680,000 Ref.GPSA1110


 
Thomas-Baumgartner.jpgBAUMGARTNER_SERIE_s.jpg★トーマス・バウムガ-ドナーTHO_BAU.jpgトーマス・バウムガ-ドナー
1968年にジュネーブで時計職人の家庭に生まれたトーマス・バウムガ-ドナーは、シャフハウゼンで」幼少時代を過ごし、1984年から1988年までIWCで見習いとして技術を修得する。
1989年から1990年にはイギリスのブライトン社に赴き、17世紀と18世紀の英国製タイムピースのスペシャリストであるローレンス・ハ-ヴェイ《Laurence Harvey》の許で働き、その経験により彼は、この時代に用いられた工具に精通するようになった。
さらに過去の時代の洗練された美的感受性を身に付け、これが彼のキャリアに深い影響を及ぼすことになる。
1992年にはスイスのオルゴールと自動人形[オートマタ]製作のメッカであるサント・コアにおいてさらに高度な技術を取得する。彼はここサント・コアでヴィアネイ・ハルターと工房を共にし、ヴィンテージ・モデルの修復に携わり、フランソワ・ジュノー〔Francois Junod〕と協力してオートマタの設計、製作を行う。
また彼はブレゲより依頼の製作も行い、アブラアン-ルイ・ブレゲ《Abraham-Louis Breguet》の発明した著名なペンデュ-ロ・シンパシーク《pendure syampathique〔同調時計〕》の製作にも携わった。
1995年にはジュネーブに居を定め、兄弟のフェリックス《Felix》及びデザイナーのマーティン・フレイ《Martin Frei》と共に《Urwerk〔ウルウェルク〕》プロジェクトを発足させた。
そして2人の協力者と共に17世紀にイタリアでカンパヌス〔Campanus〕兄弟により発明された特殊機構搭載のタ-ムピースを基に《Amphiscala〔アンフィスカラ〕》と名付けられたオリジナル機構を開発した。
このモデルの3つのプロトタイプは1997年のバーゼル・フェアにて脚光を浴びることとなった。
¥2,280,000 Ref.GPTB1110


 
Vincent-Calabrese.jpgCALABRESE_SERIE_s.jpg★ヴィンセント・カラブレーゼVIN-CAL.jpgヴィンセント・カラブレーゼ
ナポリに生まれ、独学者に特徴的な極めて型外れの経歴を歩まれた持ち主でもある。
彼はイタリアでわずか3週間の見習い修行の後、直ぐに時計の修理を始めた。
そしてその後スイスのティソで働き、その後10年間クラン・スール・シエールで高級ブティックを経営後、時計の創作に着手した。
彼は当初からムーブメントよりはむしろ審美的な要素に関心を持っていた。
そしてジュネーブで開催された発明展では、文字盤もケースも無い《With No Dial Or Case》により金メダルを受賞し、この発明はのちに、アンティコルムによって買い取られ鬼才な時計師として一躍有名になる。
こののちの作品で《Golden Bridge》の誕生を見ることとなる。
引き続き独学でケースの製作、彫金、七宝、宝飾などのような技術を取得する。
自らの名で最初に発表したコレクションは《Spatial》。
《Baladin》を経て《2T》、《Ludique》に至る、クォーツ・ウォッチの創作も含む彼のコレクションには、いずれもユーモアのセンスが感じられる。
しかし、すべての作品に一貫して見られるのは、卓越した発明の才である。
¥2,780,000 Ref.GPVC1110


 
Vianney-Halter.jpgHALTER_SERIE_s.jpg★ヴィアネイ・ハルターVIA_HAL.jpgヴィアネイ・ハルター
パリで教育を受け、アンティーク・クロックの修復で時計師としての経歴を開始した。
1990年にスイスに移住ののち、同年フランソワ-ポール・ジュルヌ〔Francois-Paul Journe〕と共にスイスの主要時計メーカーの依頼を受けて開発プロジェクトに従事する。
彼はスイスに移住して間もなくフランソワ・ジュノー〔Francois Junod〕に出会い、2人は一緒に自動人形(オートマタ)によるオーケストラを製作する為に日本のからくり人形も研究の対象として我が国日本にも訪れた。
1994年にはサント・コアに自らの会社ジャンヴィエ〔Janvier SA〕を設立し、ジャケ・ドローの依頼を受けてチャイム機構と自動人形(オートマタ)を搭載したスペシャルピースを製作、これが最初の重要な創作となり、次いでオーデマ・ピゲからの発注も受けることとなる。
1998年に発表されマルチプル・ダイアルのコンセプトに基づいた《Antiqua〔アンティコア〕》や《Trio〔トリオ〕》などの作品へと繋がって行くことになる。
ヴィアネイ・ハルターは現在、パリのデザイナー、パスカル・パジェス〔Pascal Pages〕と協力して新しい方向を探求している。
今年2003年ハリーウィンストンより発表となったすべての機構で新しい技術を開発したオーパス3が記憶に新しい。
現在アカデミーの中でも注目の時計師である。
¥6,480,000 Ref.GPVH1110

 
Frank-Jutzi.jpgJUTZI_SERIE_s.jpg★フランク・ジュッツィFRA_JUT.jpgフランク・ジュッツィ
ルドルフ・シュタイナー校で学んだ後、時計製作技術の修得を開始した。
1985年、見習いを終了すると直ちに自らの時計修復工房を開く。
当初はクロックを専門に修復をしていた。
発明の才に恵まれていたい彼は、1989年の《sonnen-Monduhr》を含む数点の独創的な作品により名を知られるようになる。
あるコレクターの依頼で2ヶ月間のパワーリザーブを有する機構を開発した彼は、この機構を基に製作した3ヶ月巻ムーブメントを大形クロックに搭載、 1990年のバーゼル・フェアに出展した。
1997年には、3つの基本的な幾何学図形である円、三角形、正方形を巧妙に組み合わせた小型クロック《Dreieckuhr》などの業績が認められ、AHCIに加入を許された。
以後年を追って行くごとに、多くの顧客が腕時計の修理を依頼するようになり、彼は腕時計の分野における技術にますます磨きをかけることになる。
最近彼は、これまで蓄積した経験を基に、自らの名前で時計の設計と製作を始めることを決心し、これにより自身の創造性と技術力を自由に発揮できるように、この《Gold Pfeil Geneve》の創作の依頼を受けた。
このことで、彼の経歴の中で新たな作品を発表することとなった。
¥2,280,000 Ref.GPFJ1110

 
Antoine-Preziuso.jpgPREZIUSO_SERIE_s.jpg★アントワーヌ・プレジウソANT_-PREZ.jpgアントワーヌ・プレジウソ
ジュネーブに生まれ、ジュネーブ時計製作学校に学ぶ。
このころフランク・ミュラ-とも机を並べてお互いの方向性を見い出す。
卒業後パテック・フィリップに2年間勤務し、さらにアンティコルムの修理工房で1年間勤続ののち、1980年に自身の工房を開いた。
彼はアンティーク・クロック、アンティーク・ウォッチの修復により大きな名声を博したが、今日でもこの分野のスペシャリストとして多くの注文が寄せられている。
彼の最初の創作作品は1990年、2年間の開発の末発表されたベゼルで操作するミニッツ・リピーターと永久カレンダーを搭載したこのモデルは、プレステージ溢れる《ジュネーブ・シール》が刻印されている。
この作品の成功によりブレゲ、ユニバーサル、ハリーウィンストンなどよりムーブメントの開発の依頼を受けることとなった。
自らの名前で発表した作品には《Platinum Traveller Tourbillon》、《The Art Of Tourbillon》、《Commedia Dell'Arete》、《Hours Of The World》、《Hours Of Love》、《Pret-A-Porter》などがある。
これらの作品はいずれも、伝統技術に対する彼の深い尊敬と、優れた芸術的感受性を共に示している。
¥1,480,000 Ref.GPAP1110


 
Bernhard-Lederer.jpgLEDERER_SERIE_s.jpg★ベルンハルト・レデーラーBER_-LED.jpgベルンハルト・レデーラー
彼はドイツで殆どの伝統的時計製作のあらゆる面に精通するようになり、その後3年間ドイツの時計製作のメッカとも言うべき、フォルツハイムの時計製作学校で教育を受けた。
これらの強固なバックグラウンドのお陰で、彼は1980年代に自身の工房を開くことになる。彼の作品は時計愛好家のサークルの中で励まされ、幾つかのデザイン賞の受賞するまでに至った。
彼はのちに自己の時間の大部分を機械式時計のデザインに費やすようになって行き、2000年、彼はブラジル政府より壮大なプロジュエクトの依頼を受けることとなる。
それは、ブラジル発見500周年を記念して、コパカバーナなどの著名な場所に設置する為、高さ14m以上もある記念碑時計を28個創作するというものであった。
しかし、このような劇的な大プロジェクトにもかかわらず、彼は真に愛するものを見失うことなく、彼の強烈な個性と巨大な創造性を刻み付けられた高級時計の創造に他ならない。
¥2,780,000 Ref.GPBL1110